日本では昔から「お金の話をするのは品がない」「お金の話は避けるべきもの」という空気が根強くあります。
家庭でも学校でも、そして大人同士の会話の中でも、お金はどこか「触れてはいけない話題」として扱われがちです。
私は、この風潮に強い違和感を覚えています。
■「お金=悪」という日本的価値観の歴史的背景
江戸時代、士農工商という身分制度の中で、商人は社会的に低い立場に置かれていましたが、実際には多くの富を持っていました。
その矛盾を解消するため、「金を持っていること=卑しいこと」と位置付ける思想が生まれ、身分間の金銭格差に対する不満を和らげる役割を果たしていたと言われています。
そこに、儒教の価値観や武士道における「清貧」「義を重んじ利を軽んじる」といった思想が重なり、お金を前面に出すことを避ける日本文化が形成されました。
ただ、これはあくまで過去の社会構造を維持するための施策であり、特定の時代背景の中で定義された一つの思想に過ぎません。
はたして、現代社会においても、それを無条件に正しいものとして引き継ぐ必要はあるのでしょうか。
■現代にも深く根付くお金=悪の価値観
この価値観の根深さを実感した出来事があります。
今から数年前、NISAやiDeCoといった制度が今ほど世間に認知されておらず、まだ、株式投資をすること自体が少数派であった頃の話です。
職場の同僚が株式投資をしている、という話が人づてに上司の耳に入ったことがありました。
その際に聞こえてきたのが、「あいつは株をやっているらしい」「お金に汚い奴だったんだな」という会話でした。
本人が誰かに迷惑をかけたわけでも、不正をしたわけでもありません。
ただ、株をしていたというだけです。
おそらくそこには、株=ギャンブル、ギャンブル=金、金=悪といった短絡的な連想があったのだと思います。
もちろん、株式投資は決して悪いことではありません。
企業活動を支える仕組みの一部であり、年金や保険、私たちの生活とも密接につながっています。
それを一括りにして「金に汚い」と断じてしまう感覚に、私は強い衝撃をうけました。
この出来事を通じて感じたのは、日本社会における「お金=悪」という価値観が想像以上に深く、無意識のレベルで根付いているということです。
理屈ではなく、感情として刷り込まれているからこそ、こうした言葉が何の疑問もなく口をついて出てくるのだと思います。
■人の生活に欠かすことのできない「お金」
現代社会で生活している私たちにとって、生きる上で「お金の関係しない活動」を探す方が難しいはずです。
衣食住はもちろん、教育、仕事、医療、そして老後に至るまで、あらゆる場面でお金は関わっています。
それほど人生に欠かすことのできないモノであるにも関わらず、お金を必要以上にタブー視する風潮は、どう考えても非合理的です。
お金について学ばず、話さず、考えないまま大人になると、当然金融リテラシーは高まりません。
その結果「良く分からないから」と判断を他人に委ねてしまい、詐欺や不利な契約、過剰な借金といった被害が横行する土壌が生まれます。
お金を遠ざけることは、美徳でも安全策でもなく、ただのリスクなのです。
■まとめ
本記事は「お金の話をすること」を正当化したり、拝金主義を勧めるものではありません。
私が伝えたいのは、現代社会において、お金の話を避けること自体が、もはや合理的ではない、ということです。
お金を卑しいもの、語るべきではないものとして扱ってきた価値観には、確かに歴史的な意味がありました。
しかし、それは、過去の社会構造を支えるために機能していた考え方であって、現代社会にそのまま当てはまるものではありません。
にもかかわらず、私たちは今なお「お金の話はいけないこと」という空気を無自覚に引きずっています。
その結果、お金について考える機会が失われ、正しい知識を持たないまま重要な判断を迫られる人が増えています。
これは個人の問題というより、社会全体が作り出している歪みだと思います。
お金は善でも悪でもなく、ただの道具です。
使い方を知らなければ振り回され、知っていれば人生の選択肢を広げてくれる。
ただそれだけの存在です。
それを必要以上にタブー視し続けることは、私たち自身の思考停止を招いてしまいます。
だからこそ「お金の話をすることは、悪いことではない」という、当たり前の前提に立ち返る必要があるのではないでしょうか。
人が生きる上で必要不可欠な「お金」。
目を背けず、正面から向き合うべきだと、私は思います。